英語ガ デキタラ イイノニナー

大人になり、社会に出てから英語の勉強をしていた時期がある。
なぜか?

 

英語で書かれた小説や詩を、原文で読みたい。
美しい文章というものは、内容が素晴らしいだけでなく、韻を踏んでいたり、独特のリズムを持っていたりする。
それは、作者が精魂をこめて磨き上げ、震える手で神の祭壇にソッと捧げた、かけがえのない宝玉。
翻訳されたものでは、その繊細な輝きが損なわれてしまう。
原文で読まない限り、本当にその作品を「読んだ」とは言えない。魂を削って芸術を完成させた作者にも失礼だ。

 

というのが、「人に英語を勉強している理由」を聞かれた時に使っていた返答である。
本当は
「英語デキレバ カッチョイイ。 女イチコロ モテモテ ゲヘゲヘ」
というような、女性に失礼なゲスい理由だったと思う。

 

ところで、その頃、好きだった女性が、日曜には教会に通う敬虔なクリスチャンであった。
色々と悲しい過去を背負っている方で、聞くと「キリスト教が心の支えになっている」という。
「この人の、儚く崩れやすい心を支えることのできるキリスト教とは、いったいどのようなものなのだろう?」
興味を持った。
そこで、通勤の電車の中で、新約聖書を原文の英語のまま読むことにした。
そうすれば、彼女の心を、より理解できるかもしれないし、英語の勉強にもなると考えたのだ。

 

新約聖書は600ページぐらい。
それを通勤電車の中で毎日コツコツ読んだ。
「わからない単語は、その都度、辞書で確認。そうすることで語彙力も強化するべし」
と考えたが、わからない単語が1ページに30個ぐらいあり、気が遠くなった。
それでも続けた。
そのうち
「周りの人はほとんどケータイをイジッている。文明に犯された迷える子羊たちの中で、1人コツコツと聖書を英語で読むワシ。なんかイカす。」
と完全に血迷った価値観を抱くようになった。

 

同時に、当時住んでいた地区で開かれていた、無料の英会話教室にも週1回通うようになった。
私以外の参加者は、ヒマを持て余した主婦の方ばかりであった。
非常に親切にした頂いたのだが、「さあっ!みんなでドレミの歌を英語で合唱しましょうっ!」というような微妙なノリであったため、途中でなんとな~くトラップ一家の一員みたいにコッソリと脱出。通うのを辞めてしまった。

 

そこのカナダ人の先生に1度聞いてみた。
私が毎日やっている「聖書を使った俺ジナル英語学習法」はどうであるか?
密かに良い方法だと自負していた私は、それこそ外人さんみたいに鼻高々であった。
しかし得られた評価は「全然良クナイ」という残念なものだった。
思いっきり鼻っ柱をへし折られたような気がしたが、意地になって続けた。

 

だいぶ読み進めた聖書は、非常に興味深い読み物になっていた。
宇宙一のマンガ「デビルマン」にもでてきた「ヨハネの黙示録」は、ノストラダムスの大予言なみに良くわからんが、なかなか想像力を刺激されるミステリアスな散文だなあと思った。
未見だが気になっていた青山真治監督の映画「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」のタイトルは、イエス様の最後の言葉で「わが神、わが神、なぜ、私をお見捨てになったのですか」という意味であることを知った。
また、イエス様が十字架に架けられた時、「お前もあの男の仲間だろ」と問い詰められた弟子のペトロが「あんな人は知らない」と、主の予言通り否定してしまう有名なくだり。
「人の心の弱さについて書かれた書物が、こんな大昔にすでにあったのか!」と驚嘆した。
これは確かに凄い本だ。
私はクリスチャンではないけれど、イエス様は凄い人だ。
私の好きなあの人が、心の支えにしているというのも分かる気がする。
私の女神よ。
この偉大な書物を読み終えた時には、今よりもあなたの苦しみを理解し、傷だらけの震える心にソッと寄りそい、イエス様の代わりに支えることができるようになるかもしれない…

 

そしてある朝。
長い旅が終わった。ついに新約聖書を読み終えたのだ。
偉大すぎるその本を手にしてから、およそ1年がたっていた。
苦労して少しづつ読み進めた日々が、パラパラとページをめくるように、まばゆく頭の中を駆け巡った。
何か大きな仕事を成し遂げた後のような、清々しい風が心の中に吹いていた。
そして……フラれた!
理由は「何だか、あなたでは、私を支えられない気がするの…」という何だか破壊力満点のものだった。
私の女神よ。
エリ・エリ・レマ・サバクタニ!

 

この世のすべてを失った私は、1日30時間ぐらい自殺について考えて暮らした。
しかしやがて「英語をコツコツ勉強してきた証のような物だけでも、せめて何か欲しい」と思うようになった。

 

そこで、「英検」を受けてみることにした。
愛する者を失ってハルマゲドンに挑む不動明のような気持ちで「英検2級」を受けに行った。
脂汗を流しつつも、筆記は何とか終了。
その後、英会話の試験がある。
試験官とマンツーマンで、質問にすべて英語で答えるのだ。
部屋に入る時も、ドアをノックして
May I come in?(入ってもよろしいでしょうか?)
と聞いて、返答を待ってから入室しなければならない。

 

ここで重要なことを思いだした。
自分が小心で極度のアガリ症で、本番や試験というものに、凄まじく弱いということを。
車の免許の卒業検定の時など、運転中、あまりの緊張に何が何だかわからなくなり、溝に落ちて試験にも落ちた。

 

暗い廊下で自分の順番を待っているうちに、そのことを思い出し、急に凄まじい緊張がこみ上げてきた。
心臓がバクバクと鼓動を打ち、逃げ出したいような衝動にかられた。
別に人生をかけた試験ってワケじゃない…
下手の横好きのようなもの…緊張する必要などないのだ…
とにかく自分の番が来たら
ノックして May I come in?
ノックして May I come in?
ノックして…
…と、絶対売れない80年代アイドルソングのような「ノックして! May I come in?」 を必死で繰り返し自分に言い聞かせ、何とか落ち着こうとした。
そして、いざ自分の番が来たら、ノックして ↓

 

インシテルハイッテル

 

…と聞きつつ、もうすでにガッツリとインしちゃってるのであった。
品の良さそうな試験官のオバちゃまは、そこからずっと困ったような顔をしていた。

 

試験の内容はまったく覚えていない。
最後に「なぜ英検を受けようと思ったのですか?」というようなことを聞かれ
「ワタシ 何モ無イ セメテ 英語ガ デキタラ イイノニナー 思イマシータ」
というようなことを、英語だか何だかよくわからない、俺ジナル言語で話したような気がする。

 

恥辱にまみれた試験が終わった…
「ああ、バカのクセに勘違いして英検なんか受けるんじゃなかった…
苦労して英語で聖書なんて読んだけど、自分には結局、何も残らなかった…」
ハルマゲドンに破れ、焼け野が原をトボトボと1人、歩いて帰った。
数日後、英検協会から封筒が届いた。 ↓

 

Why?

 

受かった!(何でだよ)

(おわり)