「人間失格」を愛する人

人間失格

私は「言い争い」というものが、ほとんどできない。

 

人と接していて、何やらモメ事になりそうな、キナ臭い、イヤ~な気配がただよってきた時。
相手が、悪意、敵意、怒りなどをギラリとむき出しにして強く何かを主張してくると、電光が走ったような凄まじい恐怖に貫かれ、頭が真っ白になる。
「正しいのは、自分か?相手か?」
きちんと考察することもできないパニック状態。
「この人がこれだけ強く自信を持って主張してくるのだから、やはり自分が何か間違っているに違いない」
と感じ、自己の正当性を主張することが、まったくできなくなってしまう。
「すみませんっ、すみませんっ」などと、冷汗をビッショリかきながらヘドモド謝って、ひたすら引き下がるのみである。

 

私のような人間にとって、世界はとても恐ろしい。
何せ「人」が恐ろしくてしょうがないのだから、ただの日常でさえ必死のサバイバル状態。
ましてや、ニュースなどで報道される、非日常な忌まわしい出来事。
特に「尼崎連続殺人事件」や、映画「凶悪」のモデルになった事件などは、心底ガクガク恐ろしい。
自分の欲望のためなら、暴力の行使もいとわず、人の恐怖心に徹底的につけこんでくる人間たち。
もし自分が大金持ちで、こういう連中に狙われたとしたら、戦えず、逃げることもできず、なすすべもなく徹底的に奪われ、喰らい尽くされてしまうだろう。
缶切を使わないと開かない貯金箱に一生懸命ためた500円玉貯金を、月末にはいつも耳かきを駆使して一生懸命ほじくり出しているようなビンボーで良かった!
危ねえ助かった!
ブッこまれずにすんだ!

 

そんな私が、若い頃、読んで非常に共感した小説がある。
太宰治の「人間失格」だ。
この作品には、本当に、心底驚かされた。
「これは、まるで自分のことのようだ!ビックリだ!人生まるごとモテ期なとこは全然違うけど!」と。

 

主人公の葉蔵は、他人を恐れるあまり「とにかく笑わせてしまうべし!」と、日々、大ボケ小ボケのギャグをイチかバチかで連発!
ある日、渾身のボケを、内心見下していた相手に「ワザとだろ」と見すかされギャフン!
「すべらない話」ですべってしまった芸人さんみたいに心底ションボリ!
「愛する人を目の前でレイプされ、何もできずにそれを見ている」という、地球上のすべての男子が絶対避けたいシチュエーションナンバー1な、永井豪先生の「凄ノ王」ばりに胸が張り裂けそうになるドンヨリ最悪レイプ!
そして「小さいおチンポ」など…大きく心に残るシーンの、とにかく青春暗黒残酷全開フルコース!
本文から、1箇所、引用させて頂く。

 

『また自分は、肉親たちに何か言われて、口応えした事はいちどもありませんでした。
そのわずかなおこごとは、自分には霹靂の如く強く感ぜられ、狂うみたいになり、口応えどころか、そのおこごとこそ、謂わば万世一系の人間の「真理」とかいうものに違いない、自分にはその真理を行う力が無いのだから、もはや人間と一緒に住めないのではないかしら、と思い込んでしまうのでした。
だから自分には、言い争いも自己弁解も出来ないのでした。
人から悪く言われると、いかにも、もっとも、自分がひどい思い違いをしているような気がして来て、いつもその攻撃を黙して受け、内心、狂うほどの恐怖を感じました。』(人間失格より抜粋)

 

「人間失格」は「自己の正当性をまったく主張できない欠陥人間の悲劇」を描いた作品だと思う。
こういう気持ちというのは、バシバシ他人と戦える、三国志の張飛みたいな豪傑さんには、わかりにくいのかもしれない。

 

我が強いだけなのはイヤだが、人間的に強いというのはうらやましい。
弱いと、言うべきところで言えず、戦うべきところで戦えず、くやしい思いを重ねることが多い。
そういえば、中学の時、董卓がマジンガーZに乗ってるような暴君キャラのK君に貸した「チャレンジャー」のファミカセ…
やっぱり返ってこなかったなあ…
「K君、チャレンジャー返して」と何度も言おうとしたけど、結局チャレンジできなかったっけ…
そして「貸したことをスッカリ忘れている、ちょっとトンマなカワイイ少年」をブサイクな顔で演じて、K君とニコニコ接していたっけ…
恥の多い生涯を送って来ました…

 

しかし、新潮文庫版「人間失格」の奥野建男さんの解説に、こう書いてある。
「この作品は、ある性格を持って生まれた人々の、弱き美しきかなしき純粋な魂を持った人々の永遠の代弁者であり、救いであるのだ」

 

そうか…
そうだったのか…!
「人間失格」に深く共感した私は、確かに弱く悲しい。
しかし、同時に「美しく純粋な魂」を持った人間だったのか…!
持って生まれた心の穴は、目がくらむほど深く、埋めがたい。
今さら強くはなれない。
しかし、弱く悲しくても、人として美しく純粋であれば、それでいいのかもしれない…

 

例えば、バイト先で、仕事がなかなか覚えられず
「使えないクルクル天然パーマ。終わってる。」
と、「クルクルパー」と「天然パーマ」をミックスさせた、微妙に巧みな暴言をブチかまされたとする。
しかし何も言い返せない。
ショックでパニック。
他人の悪意に、恐怖で頭は真っ白。
ほとんど反射的に「すみませんっ」と謝り
「ああ、やはり自分は何も人並みにできないのだ。
人間として、何か決定的に、根本的に劣っているに違いない。」
と絶望的な気持ちになる。
そして、後から、だんだんと腹が立ってくる。
やはり、心のどこかでは「理不尽だ」と感じているのだろう。
フツフツと怒りが沸いてきて「あー言ってやればよかった、こー言ってやれば良かった」と、後悔と屈辱で身もだえ。
おさえつけられた怒りのマグマがだんだんと煮えたぎってくる。
現実に言えなかったぶん、戦えなかったぶんを、妄想の中でおぎなうことになり
「今、何て言いました?
イヤ、『は?』じゃないでしょ。
使えないクルクル天然パーマって言いましたよね?
僕に対して、失礼でしょう。謝ってもらえます?
イヤ…『何でだよ』じゃねーだろ。
ナメてんじゃねえぞ!この野郎!
謝れよ!クズ!
『え?』じゃねえんだよ!
聞こえとろうが!耳が遠いんかワリャあ!
『終わってる』とも言うたのう!
おどれの人生のほうを、ここで終わらせちゃろうかァ!
おい!そこで笑っとる、おどれらもじゃ!
この会社はビチグソどもしかおらんのかァ!
どいつもこいつも全員まとめて… ↓

 

基地の外の男

 

…と、仕事帰りの満員電車の中で、魂のシャウトを暴発させてしまい、私の周りだけ半径1メートルぐらい誰もいない快適ゾーンに早変わりしたりする。

 

…………………
太宰治の「人間失格」を愛する人たちは「弱き美しきかなしき純粋な魂を持った人々」らしい…
私も、この作品に深く共感した「弱きかなしき者」である…
しかし、その魂は、憎悪と怒りと広島弁でドス黒く濁りまくっており、「美しき」と「純粋」は、私の場合やっぱりちょっと当てはまらない気がする!

(おわり)