オリンピックエンブレムのパクリ疑惑騒動。
この件の真相に関してはともかく、「パクリ」についてちょっと。
例えば映画を観たり、マンガを読んだりしていて
「このシーン、あの作品のアソコと何とな~く似てるなあ…」とか思うことがチョイチョイあると思う。
コリャしょーがないことだ。
以前、どっかの偉い人が言ってたのだが(名前忘れた)
「アイディアというのはゼロからは生まれない。その人が見たり聞いたりしてきたものが、組み合わさってできるもの」
なんだそうだ。
また、どっかの偉い小説家の方は(名前忘れた)
「小説は排泄物みたいなもの」
と言っていた。
偉い作家さんがその崇高な作品をまさか排泄物に例えるとは!キチャナイ!やめてくれ!
でも言いたいことはわかるので綺麗に説明すると、つまり「作品」とは、様々な記憶や知識や経験などがバリバリと咀嚼され、混ぜ合わさり、消化吸収され、ブリブリと噴き出した「ウンチ」。
だから、そこには既存のモノの面影が、あたかも未消化のつぶつぶコーンのように時々コーンチワするというワケである。
ウンチした本人も、類似に気づかないことが多いと思う。
このような「無意識のパクリ」はコリャしょーがないことだ。
しかし人気が欲しいからといって、ヒット作の「意識的なパクリ」はもちろんダメである。
マンガやブログのヒット作は「必殺の決めゼリフ」を持っていることが多いと思う。
例えばマンガだと、誕生して長い年月を経た今でもなおパワフルに嵐を巻き起こし続ける小林よしのり先生の「ゴーマニズム宣言」。
ラストでご自身の考えを豪快に主張する前の必殺のアレ。
「ごーまんかまして よかですか?」である。
ブログだと「2007年ブログ・オブ・ザ・イヤー アスリート部門」を受賞なさったこともある、竹原慎二さんのオフィシャルブログ「竹原慎二はブタっ鼻」。
まるで現役ボクサー時代の必殺パンチのように、いつも強引に文章を終わらせるアレ。
「じゃあの。」である。
読んだことのある方も多いと思うが、以下にちょっと抜粋してみよう。
2007-4-25
「怖いの」
ジムに走りに行きたいんじゃけど
開くの十時か
じゃあの。
2007-5-14
「もう」
だめじゃ
眠い
部屋に帰って早く
スイミングしたいわ
睡眠グーじゃ
じゃあの。
2007-5-14
「でかいわ」
大林素子さん
でかい
二メートル有るわ
自称182センチは嘘じゃ
じゃあの。
(アメーバブログ「竹原慎二はブタっ鼻」より抜粋)
特に内容がなくても、必殺の「じゃあの。」で有無を言わせず読了感を叩きつけるこの豪腕っぷり。
イカす。
このような「必殺の決めゼリフ」は作品をヒットに導くだろう。
しかしそれは、自分で苦しんで、お腹を痛めて生まなければならない。
人のヒットがうらやましいからと言って、意識的にパクッてしまうなど絶対いかん!やったらいかん!言語道断!もってのほかである!↓
「無意識のパクリ」はしょーがない!
「意識的なパクリ」はバレてしまったら
「…あれは…オマージュです…」
と自殺未遂が趣味の仏文科大学生の憂いをおびた表情で全力でごまかすべし!
それでもダメなら
「あれは、はるか宇宙のかなたベテルギウスに棲む守護天使エイワスから送られ、ヨグ・ソトースの門を通って届いた啓示を月食の夜に受信したものです。エコエコアザトホース!」
とか何とか言って全力でアッチの世界の人のフリをして追及かわしまくるべし!
ちなみにこのブログは「文章の途中にイラストをはさむ」というスタイルをとっているが、これは中島らもさんの爆笑エッセイの金字塔「中島らものたまらん人々」の意識的な完全丸パクリである。
ちなみに、らもさんの著書は当たり前だが私の駄文なんぞの3兆倍ぐらい面白いことを付け加えておく。
じゃあの。
(おわり)