この写真は「麦茶を入れるポットの中に、熱が出た時におでこに貼る《熱さまシート》を入れ、水を注ぎ、冷蔵庫で冷やしたもの」である。
「なんのこっちゃ?」と思われるかもしれない。
しかし私も見た時「なんのこっちゃ?」と思った。
今まで「なんでも、なるべく、おもしろく」と思ってコラムやマンガを書いたり描いたりしてきた。
なので、たとえ吉本芸人の方たちが総出でアレンジをしてくださったとしてもおもしろくなりそうにない真性のしんどいことはネタにしてこなかった。
しかし、あまりにもしんどすぎて「こりゃ、もう、面白くなかろうがなんだろうが、何かのネタにしないと、ワリに合わん!」と面白くないことを思い詰めるようになってしまったため、このたび少し書かせて頂く。
私は数年前から、認知症になってしまった父の介護をしてきた。
冒頭の写真は、その父の認知症による奇行の一つである。
父のことの他に、我が家にはもう一つ。
もう長い間ずっと、悪い病気のように抱え込んでいる「ある問題」があった。
それはくわしくは書けない。
とにかく「葛城事件3秒前!」ぐらい破滅へのカウントダウンが進んでおり、事態は切迫しまくっていた。
なので、家族で殺し合ったりするようになる前に、公的な力に介入してもらい、なんとか一応、決着した。
これにより、私は認知症の父と二人暮らしになった。
「父だけなら私が面倒をみていける!」
そう思っていた。
そしてそれは大きな間違いであった。
父の症状は7年前ほど前、お盆を手に「メシできたで。」と、さっき父が用意してくれたメシを食べてる最中の私の部屋に一風堂の店員さんの笑顔でメンならぬメシの替え玉を持ってきたりすることが増え、「最近の父ちゃん『ロマサガ2』の町の人々ぐらい何度も同じことばっか言うてくるのう。」と思い、「まさか…」という脳裏にチラリよぎった疑念からシーフのすばやさで全力で目をそらした頃に始まり、あっという間に直視せざるを得ないほど悪くなり、どんどん進行していった。
「メシ食べたか?」「風呂入れよ!」などなど、同じことを何度も何度も加トちゃんの勢いでババンバ バンバンバン言ったり聞いたりしてくるのはもちろんのこと、そのうち、何かを記憶することはまったくできなくなった。
嗅覚などの五感がおとろえ、広島太郎さんも気絶するぐらい強烈な匂いの服を気づかず着ているようになった。
また、真夏日に、力石も逃げ出す高温にブチ上がった部屋で冷房もつけずに寝ていることもあった。
洗濯物も、手に触れてわからないのか、まだ乾いていないビショビショのまま、取り込んでたたんでしまうのだった。
「まだ乾いてないから、このまま干しておいて。」と頼み「ほうか、わかった。」と言ってくれた3秒後には取り込み始めてしまったので、「ほうか、わかった。」と、もう無理なのを理解し、夢精した中二のようにコッソリ自分の部屋で干すようになった。
父は元料理人で、小さな喫茶店を経営して家族を養ってくれた。
私は父が料理上手なのが自慢だった。「今日の夕飯は何だろう?」といつも食べるのが楽しみだった。
しかし、その料理ができなくなった。
豚の角煮にみたらし団子をぶち込んだり、味噌汁にブドウジュースを注いだり、おむすびに海苔ではなくバランを巻いたり、冒頭の写真の通り《水出し熱さまシート》や《水出しロキソニン》を作ってしまったり、使う食材や味付けがムチャクチャになった。
食材があるとすべてダメにしてしまうので、なるべく買い置きをしないようにした。
すると外から道ばたの雑草などを引きちぎってきて牛乳や醤油で煮込んだりしてしまうのだった。
冷蔵庫にモノを保管することは完全にできなくなった。
帰宅すると、まず「父ちゃん、ちょっと風呂の湯、見てきてくれん?」などと言ってナチュラルに台所から離れさせ、この俺ジナル過ぎる前衛料理を、父のプライドを傷つけぬよう、父が見ていない隙にパッと廃棄し、食器や調理器具もサッと片づけるというミッションをメタルギアソリッドの動きで素早くクリアしなくてはならなかった。
また、異食も始まり、台所用洗剤をグラスに注ぎ、マラソン後のポカリの勢いでグイッと飲み干してしまったこともあった。
お金を持たせると必要のないものを山ほど買い込み、1日で使い果たしてしまう。
言っても書いてもわからない。
なのでもう1円も持たせず、カードも通帳も私が管理することにした。
空っぽの財布を見ながら「金がないよ…」と泣くこともあったが仕方なかった。
しかしそれでも、ときどき、見たことのないウォーターサーバーや、健康飲料などが台所に置いてあることがあった。
私が知らぬ間に電話セールスや訪問販売が来るたび、あっさりと契約してしまっているのだった。
血の気がドン引き、慌てて電話をかけ、事情を説明し、片っぱしから契約を解除しなければならなかった。
また、カルト臭強めの怪しげな宗教団体のパンフレットやそこからの「次回は天国へ行く唯一の方法を聞きにこられませんか?」などと書かれた直筆の手紙を持っていることもあり、全員地獄に落としてやろうかと思った。
徘徊もひどかった。
お金を持ってないのに、毎日近所のスーパーに出かけ、商品をカゴに山盛りし、レジで払えず、「家にお金取りに行ってきます。」と帰宅し、いつもそのまま忘れていた。
店員さんたちは事情を分かってくれており、そのたびに商品をカゴから棚に戻しておられ、仕事を増やしてしまい申し訳なかった。
いつの間にか いなくなってしまい、持たせてあるGPSを頼りに、自転車で街中探し回ることもあった。
遠い徘徊先から一文無しなのにタクシーに乗って帰ってきて、財布が痛い金額を父の代わりに運転手さんに払いながら「ちゃんと見とかにゃあ!」と怒られて胸まで痛い時もあった。
暴走族ぐらいしか起きてる人がいないド深夜に突然、昔のバイト先などに行こうとすることも多く、一度「出かける!」と言い出すと、どんなに説得してもわかってくれない。
カッとなってこちらがムキになると父もムキになり、ブレイキングダウンぐらいすぐに大ゲンカになってしまう。
なので仲良く一緒に徘徊し、途中でちょっと買い物などをし、気を紛らわせると何となくスムーズに家に帰らせ、落ち着かせることができるという必勝テクを会得した。
警察にも何度も保護され、そのたびに徘徊ニキの私が派出所まで迎えに行き、VIPの手厚さで優しく車から降ろしてもらうパトカータダ乗り常習犯の代わりにお巡りさんたちに謝罪した。
そして今年の夏、《誤嚥性肺炎》と《コロナ》による2度の連続入院を経て、症状はさらに進行。
今、どこに、誰と住んでいるのかわからなくなった。
もう10年も前に亡くなった母のことを「お母さんはどこに行ったん?最近、いっつもおらんじゃん。」と頻繁に聞くようになり、「スエはどこ行ったん?」とスエに聞くことも多くなった。
「ここにおるじゃん。じゃあワシは誰なん?」としょんぼりスエが聞くと「あんたは……いっつもおる人よ。」と言われ、私の存在は老人と子供にしか見えない いっつもおる地縛霊みたいになっていた。
自分で着替えることも難しくなった。
いつの間にかTシャツを6枚も重ね着していたこともあった。
いつの日かと恐れていた便失禁もついに始まった。
私はこうした父の症状に完全に振り回されっぱなしだった。
朝、起きるとまず重くのしかかってくる「また、アレをしなくちゃいけないのか…」という憂鬱な思いを何とか押しのけ、ほとんどいつも全失禁している父の元へ。
悪臭に耐え、汗だくで、時には糞尿に汚れ、グズる父をなんとかなだめながら、着替えさせなくてはならない。
食事をさせ、デイサービスに送った後、汚れたシーツや服の洗濯、部屋の掃除。
デイサービスを週2日から週6日に増やし、少し楽になったものの、15時には家に居て、お迎えや夕飯の準備を始めなくてはならない。やはりゆっくりと外出したりすることはできない。
夜、寝かせた後も、突然の徘徊や転倒などがあるため、常にハラハラして緊張が解けない。
映画やライブにも行けない。
私にはもう、自分の生活はほとんど なかった。
「父がいる限り、これがずっと続くのだ。」と思うと絶望的な気分になった。
ある日、汚物まみれの父の介護パンツを替えている時、あまりにもグズり、ジッとしてくれないので、長い間ずっと抑えこみ、心の底にマグマのように溜め込んできた苛立ちが爆発した。
「ワシはどうすりゃあええんね!毎日毎日いったいどうすりゃあ ええんね!」と大声で怒鳴り散らし、壁を思いっきりブン殴ってしまった。
認知症になってしまった家族に対して苛立ち、怒り、憎しみを感じてしまうのは、「介護あるある」だ。
そうなってしまった介護者の心を介護する方法があちこちで語られ、本もたくさん書かれている。
「介護する人の心も壊してしまう」
それが認知症の恐ろしさなのだ。
現実的に考えてたぶん渚カヲルくんぐらい絶対怒りそうにないぐらい優しくないと、このイライラを回避できないと思う。
私は旧劇エヴァのぐったりアスカで抜く最低シンジくんから、さらにエヴァへのシンクロ率も完全にゼロに抜いてオッサンに仕上げたぐらいの完全なるダメ人間なのでダメであった。
あの時、振り上げた拳が、19話の初号機の勢いで、壁ではなく父に向っていたらと思うと本当に恐ろしい。
担当のケアマネージャーの方に、自分のしたことを報告した。
「もう限界だと思います。お父様を施設に入れましょう。」と、少し前から検討するようすすめられていたことを、ここであらためてきちんと提案された。
認知症を専門に扱っている新しい病院で、あらためて父を診てもらい、いくつかテストを受けた。
30点満点のもので、結果はどれも2点~5点。
「これは、すでに施設に入っている方々よりも低い数値。もう、自宅介護でできることは何もないと思います。」とのことであった。
比較的に安く利用でき、多くの方が終の住処とする特別養護老人ホーム、いわゆる特養は、やはり人気でなかなか空きがない。場合によっては何年も空きができない。
ケアマネージャーさんのアドバイスを受け「ショートステイの施設にロングでステイし、特養の空きを待つ」という方法を取ることになった。
民営の豪華な老人ホームや、グループホームに入るのが経済的に難しい方は、皆さんよくこの方法を使うとのことである。
入所の日の朝。
「いつものデイサービスに行くんよ。」の顔でいつもと違ってタクシーに父を乗せ、いつもと違う方向の入所施設に連れて行った。
優しそうな職員の皆さまに迎え入れられ、ガラス張りのドアにカチャリと鍵をかけられ、廊下の向こうに連れていかれ、見えなくなる最後まで、父は私のほうを向いてニコニコと手をふっていた。
帰りは1人歩いた。
これで本当に良かったのか?
他の人ならもっとうまく立派に介護ができていたのではないか?
時々ニュースになる「職員による虐待」などは大丈夫だろうか?
家族も知人も誰もいない部屋で1人、父は何を思うだろうか?
不安、後悔、自己嫌悪、罪悪感が渦巻く思いを胸に、トボトボと1人歩いた。
こうして私の「ダメダメ介護奮闘期間」は、とりあえずの終息となった。
家族用の市営住宅の部屋でポツン、10年以上ぶりの1人暮らしになった。
今、私は、介護をしなくていい生活がいかに楽で快適であるかを日々噛み締めている。
何しろ、冷蔵庫の中にモノを置いておけるだけで、洗濯物をベランダに干せるだけでもうれしいのだ!
外出だって自由にできるのだ!
しかしこの解放感と同時に、罪悪感もぬぐえないでいる。
「父はきっと、母と一緒に過ごした家に最後までずっといたいはず。だから在宅介護でがんばろう!」
そう決心していたが結局、私には人間的にも経済的にも無理だった。
「家族がガンになった時に自分で治そうとする人はいない。医者に託す。認知症も同じ。専門の方々に託したほうがいい。」
そう考え、自分の選択を納得させようとした。
しかし、治したかったのは介護で荒みきってしまった自分の心だ。生活だ。
「自分が楽になるために、介護をギブアップし、もう何もわからぬ父を施設に入れ、一人ぼっちにした。」
そんな罪悪感が拭いきれないでいる。
しかしションボリなんてしていられない。
父を施設に入れてしまったからには、せめて快適にそこにいられるように、きちんと金を稼がなくてはならない。
なにしろ費用が毎月12万3千円もかかるのだから。
ここ数年、私は、介護のヒビに飲み込まれ、振り回され続けた。
仕事を辞め、貯蓄も失い、やりたいこと、やるべきことも、どうしてもうまくできなかった。
何とか続けることができていたのは、もう1つのサイト《80年代OVAのススメ》の週1回の更新ぐらいである。他には何も残らなかったような気がする。
我ながらいい歳こいてしょーもないと思うがしょうがない。
気を取り直して新しい生活を始めよう。
きっと何とかなるだろう。
父のためにも、自分のためにも、きっと何とかしよう。
さあ、頑張りましょうね!!
(おわり)