※前編はこちら↓
ちょっと前のこと。
認知症の父が入っている施設から「退去のお願い」がきた。
「備品の破壊行為などが最近さらにひどくなり、こちらではもうお世話をするのが難しい」とのことであった。
破壊行為の報告は今まで何度か受けていた。
例えば入居時に持ち込ませて頂いた家族アルバムの写真をなぜかビリビリ細かく破いてトイレに流し、下水管を詰まらせて壊してしまったことがあった。
「家族と何か関係のあるものがないと、きっと寂しいだろう。」と思って持たせたのだが、なぜなのだろう?
父にとっても大切な思い出のはずだが…
また、トイレの水を貯めるタンクや便座、部屋の照明のスイッチなどをバラバラに分解してしまうこともあり、そのたびに弁償せねばならなかった。
こういった困った破壊行為が日々ひどくなり、もうどうやっても止めようがないらしい。
長く続けてきた在宅介護が、便失禁が始まったぐらいからウンチだけにクソ辛くなり、それでもなんとか糞闘を続けるも頻繁にググる検索ワードが「無理のない介護のやりかた」とかから「無理のない無理心中のやり方」とかに変わってしまい「こりゃもう無理だ!」とギブアップ!父を今の施設に入れた。
しかしこのたび私と同じく施設もギブアップ!
結局4ヶ月ちょっとしかもたなかった。
前にも書いたが父が入所したのは「ショートステイ」という施設。
しかしショートステイは本来は文字通りホテルのように短い滞在に使うもの。重度の認知症になると対応が難しい。
本当は、より手厚いケアと家庭的な雰囲気が期待できる「グループホーム」に入れたかった。しかしどこも高い。一番安いところでも私には高い。
グループホームよりは少し安いため、みんな使いたがる国営の特別養護老人ホーム、通称「特養」はもちろん空きが全然ない。
申請してから年単位で待つのが当たりまえ。もしも2、3年で入れれば「超ラッキー!」という絶望的な世界である。
なので、ずっとお世話になっている担当ケアマネージャーMさんのススメで「ショートステイをロングで使う」という方法をとった。
これだと比較的にではあるがちょっと安くすむ。
経済的に余裕がない場合はこの方法を取り、特養の空きを待つというのが昨今の「介護あるある」らしい。
近所の行きつけのスーパーで「見切り品キラー」とか「半額シールの鬼」などのカッチョいいあだ名を頂戴するぐらい経済的に余裕のない私もそうしたのだった。
しかし、もう同じ手は使えない。父の奇行は止めようがない。悪くなっていくだけで良くなることはない。
どこか別のショートステイに入れたとしても、きっとまた同じことになってしまう。
諦めていたグループホームを探さねばならない。そこなら認知症が進行してしまった父もお世話をしてもらえるはずである。
雰囲気が良さそうで、植松聖みたいな職員がおらず、ちょいちょい会いに行ける距離にあり、帝愛グループの地下強制労働施設に墜ちたカイジの顔でがんばって働けば何とか払えるかもしれない料金のグループホームを探した。
しかしやはりどこも高い。
たまにある安い所はヒバゴンが普通に歩いてそうなめっちゃ山奥のほうだったりする。遠すぎる。とてもちょいちょい会いに行ける距離ではない。
今のショートステイからは「できれば…なるべく早く…」と遠回しにやんわり急かされているが良い所がなかなかない。
「どうしても見つけることができない」とオロオロしていると、またしても「できる男」担当ケアマネージャーMさんが、場所も料金もなんとか許容範囲内のなかなか良さげなグループホームを見つけてきてくれた。
さっそく見学に行くと、比較的に建物が新しめで雰囲気が明るい。
職員の皆様も親切そう。
何よりまったくなじみのない街ではなく、チャリで30分程度で会いに行ける距離なのが良い。
さっそく父を連れて面談へ。
「会話の内容しだいでは受け入れ拒否になることもあります。」とケアマネージャーMさんから聞いていたので「父ちゃんがなるべくトンチンカンなこと言いませんよーに!」と祈りつつ面談に臨み、女性施設長さんの「お名前を聞いてもいいですか?」などの質問に「はい!久しぶりですがね、まあ元気でやっとります!」などとハキハキ元気にトンチンカンなことしか言わない父の横で白目をむき、最初から最後まで完全に会話が成立しないまま終了、ションボリ落とした肩を父と並べて二人帰る道すがらスマホに連絡が入り合格した。
入居先が決まってホッとしたのも束の間、すぐに「金の問題」が重く頭にのしかかってくるのを感じた。
父が入っているショートステイの利用料は月に約12万。
父の年金を支払いにあて、不足分を支払うのだが、情けないことにそれでも私にはきつかった。
そして今度入るグループホームは、比較的安いと言っても月に16万かかるのである。
私は父の在宅介護のため、そして自分の精神的な理由のため仕事を辞めていた。
その後はフードデリバリーの仕事を始めた。ウーバーイーツや出前館などのあれである。しかもママチャリ配達!ええ歳こいたオッサンだけどママチャリ配達!
一人ぼっちでできるので対人関係のストレスがなく働きやすいものの、この仕事は収入が安定しないのである。
注文が入るかどうかはお客様しだい。
完全出来高制なので入らなければ収入はゼロ。父の介護費用の獲得が困難なのはもちろん自分自身も餓死必至。
なかなか注文が入らないそんな時は、獲物を求めて暗い海をさまよう飢えた人喰いザメみたいな顔で注文が入りそうな繁華街をチャリでえんえんユラユラ徘徊し、しだいにいい感じの運動になり、余計に腹が減って困る変なサイクリングおじさんになっていた。
そんなこんなで自分の生活もままならないのに、月に16万、どうやって用意するのか?
2ヶ月に一度支給される父の年金が約18万。1ヶ月に換算すると約9万。
これを使わせてもらっても、あと7万必要である。
そしてこの7万でさえ情けないことに私には厳しいのだ。
たいていの人は、このような「親が認知症になってしまう」という可能性も考え、将来に備え、年相応の経済力を身につけておくものなのかもしれない。
バカな私はそれをしなかった。
恐怖を感じ、見つめ、考え、備えるということをしなかった。
せっかく迫り来る恐怖を感じ取っても、甘えの治らぬ子供のように目を閉じるだけだった。「自分にそんな酷いことが起きていいはずない…きっと大丈夫だろう…なんとかなるだろう…」と。
なんともならなかった。
閉じたまぶたのすぐ向こうには残酷な現実が容赦なく迫っていた。
私は本当にバカすぎた。
自分の生活費以外に毎月16万。どうやって用意するか?
入居日はせまっており、支払いはもうすぐに発生し始めるのだ。
『闇金ウシジマくん』に出てくるどんづまり多重債務者の顔で頭を抱えていると、ショートステイから「父が亡くなった」と連絡があった。
グループホームに入居する4日前のことであった。
まるで私に迷惑をかけまいとするかのように急に逝ってしまった。
病院で父と対面した。
178センチの長身の人だったが、亡くなったとたんにエネルギーも何もかも抜けてしまったかのように急にやせて小さくなっているように感じた。
ショートステイの職員の方によると、朝6時の見回りの時は異常なく、1時間後の起床時に部屋を訪れると、ベッドの上でもう息をしていなかったそうである。
警察の検死の結果、事件性はなし。死因は「窒息」であった。
介護パンツの中に入っているオシッコを吸収するゼリー状のものが、のどの奥のほうまでギッシリ詰まっていたとのことである。
父はすぐ喉をつまらせ嘔吐するようになっていた。そして異食もひどかった。
気をつけていないと食器用洗剤をマラソン後のポカリの勢いでグイグイ飲み干してしまったり、料理皿の横に置いてある紙ナプキンをヤギさんもビックリな感じでムシャムシャ食べてしまったりするのでかなり目が放せない状態であった。
しかし、職員の方もまさか介護パンツの中身を食べてしまうとは思わなかっただろう。
赤ちゃんレベルに失禁もひどかったのではかせないワケにもいかない。
防ぎようはなかっただろう。
それにしてもなんという死にかたであろうか。
10年以上前に先に逝った母と父が猫っ可愛がりしていた愛犬も一緒にあの世で呆れているにちがいない。
もうずいぶん前からずっと「私は父が死んでもきっとまったく悲しめないだろうな。」と思っていた。
しかしいざ父が死んでみるとホントにまったく悲しくない。
あるのは安堵と開放感だけである。
介護は地獄過ぎた。
施設に入れてからは自分の時間が持てるようになり、楽になるかと思っていた。
しかし経済的にはもちろん、精神的にもやはり苦しかった。介護が終わったわけではなかった。
施設にあずけっぱなしで知らんぷりは絶対にイヤだったし、娯楽がほとんど無い場所なので退屈でつまらないだろうと思い、月に2度、隔週水曜にいつも一緒に外出し、食事や映画やイベントなどに連れて行った。
失禁が多い父のため、常にトイレの場所を確認する。
歩く時は転倒せぬように、食事の時は異食をしたり、ノドをつまらせぬようにハラハラと見守る。
一緒にいる間はずっとSPの顔で気をはっていなくてはならない。
施設に連れて戻り、そこがどこなのかわからず警戒して入ろうとしない父に「ちょっと中でお茶飲んで待っとって。ワシもすぐ行くけえ。」と嘘をついてだまし、職員さんに連れて行かれる後ろ姿をやりきれぬ思いで見送る。
家に帰っても、何もない施設の部屋で一人ぼっちの父がずっと頭の中にいる。
もうあんな胸が締めつけられるような思いをしなくていい。
もう何もわからなくなった父を見なくていい。
もうこれからは父のことで思い悩まなくていいのだ!
介護の地獄は苦しみを増しつつ、これからもずっと長く続いていくのだと思っていた。
もし実際にそうだったら私はどうなっていただろう?
どんどん悪くなっていくだけの父を生かし続けるためボロボロになって働き、稼いだ端からその金は介護費に消え、自分のしたいことすべきことはまったく進まず、経済的にも精神的にもすり減っていき、身の上を呪い、前に進んでいける人たちを妬み、兄弟を恨み、親戚を恨み、そして父を恨み…
完全にそうなってしまう前にこうなって本当にホッとした。
のどを詰まらせ、きっと苦しんで死んだに違いない父には申し訳ないがそれが本心である。
金がなかったため、兄弟と最小限の親戚だけを呼ぶ一番小さい、形だけのような葬儀をすませた。
骨になった父を家に連れて帰り、逝去にまつわる様々な事務処理を一人で淡々と片づけていった。
そんな中、ずっとお世話になりっぱなしだった例の担当ケアマネージャーMさんが来訪。父の遺影に線香をあげてくださった。
最後の書類の手続きを完了し、今まで本当に良くしてくださったことへのお礼を伝えた。
そして帰りぎわ、Mさんは最後に私にこう言った。
「今までたくさんのご家族を見てきました。だからこれだけはハッキリと言えます。あなたぐらい一生懸命にお父さんのお世話をした人はいませんよ。」
その瞬間、急に一気に涙がこみあげてきてあっという間にあふれた。
なぜだろう?
どんなに我慢しようと思ってもダメだった。
涙があふれてあふれてどうしても止まらなかった。
優しく私の肩をたたくMさんの前で子供みたいに泣き続けた。
私の介護の日々は終わった。
父に認知症が出始めてからおよそ7年が経っていた。