20代前半の頃、私が住んでいた東京のアパートは、とにかく凄まじいボロさであった。
近くの道路をトラックが通っただけで激しくグラグラゆれた。
そのため、地震が来てもまったく気づかず、おびえず日常生活が送れた。住人のメンタルに直接作用する斬新すぎる安心免震設計。
もちろんエアコンなんか無し。
夏の暑さたるや、4畳半の狭い部屋にワラワラとマージャンをしに来た連中が、あまりの猛烈サウナ状態に全員、東一局で「あづい~っ!」と叫んで、汗を飛び散らせながら逃げ出すレベル。
しかし、ツライのはどちらかと言えば冬のほうであった。
冬の寒さは本当にこたえた。
部屋の中でも外と同じように白い息がシャーッ!と出るほど寒い。
「室内のありがたみ」というモノがまったく感じられなかった。
なぜか畳の上をダンゴ虫がノロノロと歩いてることもあった。彼らにも外と中の区別がついてなかったのかもしれない。
暖房器具はコタツのみ。
ファミコンとかやってると、だんだん手がかじかんできてアクションゲームの操作が困難に。
マリオもリンクもやたらとすぐ死んだ。
関節を動かすのが困難になるほど何重にも重ね着し、いつもダルマさんみたいに着膨れしていた。
それでも、寒くて辛抱たまらん時は、鍋にタップリとお湯を沸かし、バクチク聞きながら踊り狂って暖を取った。
そんなキチガイの主食はカップ焼きそばであった。
しかし、お湯を注いでコタツに入って3分待っていると、もうそこから出るのが嫌になる。
カップ焼きそばは流しにお湯を捨てなければならない。しかしそこまでのわずかな距離の移動ですら、寒くて寒くて勘弁してなのだ。
そこでもう、コタツに入ったまま振り向いて窓を開け、↓
…と外にお湯を捨てるようになった。
部屋が1階で良かった。2階だったらこうはできない。たまたま窓から顔を出していた下の階の人にかかっちゃたりしたら大変!
しかし時々、たまたま窓を開けていた隣の豪邸の上品そうな若奥様とバッタリ顔を合わせることがあった。
私が「どもっ!」という感じでぺヤング両手に軽く会釈すると、奥様はハッとしてサッと窓を閉めるのであった。ガラガラピシャッ!
若い男と急に目が合ったからって、そこまで照れることは無いと思ったナ!ワシは!
そんなある日、いつものようにぺヤングを手にガラッと窓を開けると、何やら視界のスミに入る黄色いモノが。
良く見ると、私がいつもジャバーッ!とお湯を捨てていた地面に、いつの間にか小さなタンポポが咲いていたのであった。
他の場所には何も生えていない。私がお湯を捨て続けたことで、少しへこんでしまった箇所にだけピンポイントで小さな黄色い春が咲いていた。
カップ焼きそばから何かエキス的なモノ(EXTRACT)が抽出され、それが土壌に劇的な作用をもたらし、タンポポの成長を促したのだろうか…?
しかし良く考えると、熱湯というのは植物にとってハード過ぎると思われるので、やっぱり何の関係も無いのかもしれない…とにかく、あくせくと日々の生活に追われてる間に、いつの間にか春が来てたんだなぁ…今日から、カップ焼きそばのお湯は横着せずにちゃんと流しに捨てよう…と思ったという、私にとって比較的どうでもいい、他人にとっては完全にどうでもいいエピソードを、先日カントリーマームを買いに歩いている時、フンワリと思い出した。
道ばたに、あの時と同じようなタンポポが、小さく、しかしクッキリと咲いているのを見たからだ。
皆さんの元にも、春はもう届いただろうか?
ところで春と言えば花。
花と言えば、私は子供の頃から不思議に思っていたのですが、瀧廉太郎の「花」っていう歌がありますよね。春のうららの。
同じく瀧廉の「荒城の月」ってありますよね。春高楼の。
この2曲、「花」と「荒城の月」って、メロディーと歌詞を入れ替えても、ピッタリ歌えるのはなぜなんでしょうか…?
「花」
春のうららの 隅田川
のぼりくだりの 船人が
櫂(かひ)のしづくも 花と散る
ながめを何に たとふべき
「荒城の月」
春高楼(こうろう)の 花の宴(えん)
巡る盃(さかづき) 影さして
千代の松が枝(え) 分け出でし
昔の光 今いずこ
↑「花」のメロディーで「荒城の月」を。「荒城の月」のメロディーで「花」を。
歌詞もまったく余らずピッタリ歌えるのだ。
みなさんもさっそく職場で新入社員たちの前で歌ってみよう!そして「完全にどうでもいい豆知識を聞いてしまった」という顔をされよう!
(おわり)