「あの頃は良かった!楽しかった!毎日が輝いていた!ああ…あの頃に戻りたい!」
などと、まぶしそうなほっそい目をして笑顔で自分の青春を懐かしく振り返り、クラス会などにワクワク出かける方々の気持ちが1ミリもわからない。
私にとって「青春」の同義語は「地獄」だったからだ。あの頃に戻るぐらいなら死んだほうがマシである。
今回は、そんな青春嫌いな私が好きな青春マンガをいくつか紹介させて頂きました。(随時更新)
私の好きな青春マンガ
ホワイトアルバム
■著者:安達哲
■1988年 週刊少年マガジン
■全2巻
高校生の時、週刊少年マガジンで安達哲先生のデビュー作『ホワイトアルバム』の連載が始まった。
衝撃だった。
新学期の緊張。他者への恐れ。探り探りの触れ合い。
憧れる女子の前でかいてしまった「恥」が突然フラッシュバックして、部屋でうめいて頭を抱えて転げまわる主人公。
背伸びして出かける夜の街の闇。冷たさ。
とつぜんふりかかる暴力。(主人公のおとなしい男子が電車の中でネチネチからまれるシーン、怖かったナ…)
そして、近くて遠かった「女の子」たちへの想い…
「あっ!自分と同じだ!自分の世代と同じ感覚を持った人が描いてるんだ!こんなリアルな等身大なキャラが描かれた青春マンガ初めてだ!」という衝撃があった。
それもそのはず、安達哲先生はこの時まだわずか19歳だったのだ。
毎週夢中で読んでいたし、自分の周りでも大評判。
しかし高校入学から始まった物語はなぜか突然、卒業まで時間が飛び、連載もすぐ終わってしまった。人気がなかったとはとても思えない。何か事情があったのだろうか?
ちなみに切通理作さんの初監督作品『青春夜話 Amazing Place』は、本作にインスパイアされたものだそうである。
全2巻の単行本には、デビューのきっかけになった受賞作と、安達哲先生が高校時代に好きだった女の子の想い出を描いたエッセイマンガが併録されている。
この短い作品が、後にあの凄春性春青春マンガ『さくらの唄』という大輪の華となり狂い咲くのだ。
キラキラ!
■著者:安達哲
■1989年 週刊少年マガジン
■全8巻
刺激的な毎日、特に「天使のようにかわいい女子との出会い」を夢見て、普通につまらんパンピー高校から芸能人だらけの堀越学園的な学校に編入した主人公。
そこで巻き起こる青春ドラマは夢見た通りキラキラ!…してるだけではなかった。
安達哲先生がデビュー作『ホワイトアルバム』の次に連載を開始、大ヒット!なぜ本作がドラマ化されなかったのか不思議なぐらいである。
この頃の週刊少年マガジンは(今も?)「人気作は一挙二話掲載!」という、読者的にはうれしく、作者的にはおそらくおそろしく厳しいことを時々やっており、『キラキラ!』もその対象となった。
「こりゃ締め切り大変だったんだろうな…」と素人目にもわかる豪快な荒れっぷりの絵と、中盤クライマックスの胸が張り裂けそうになるハードなストーリー展開がスパーク!誌面から凄まじい熱気が噴き出していたのをハッキリと覚えている。
ちなみに私はこの作品を友人に貸し、感想を聞いたところ、彼は神妙な面持ちでしばし沈黙したあと
「エミリは…あいつとヤッちゃいけんっ。」
と一言だけ口にした。
映画『真夜中のカウボーイ』オマージュたっぷりな「ケンちゃん」というキャラをめぐる、この一挙二話掲載されたあたりの容赦ない展開が、かなりショックだったのだろう。
「彼女は処女じゃなきゃ嫌だ」というような江戸時代の人もビックリな古い価値観をお持ちの男子は覚悟して読むべしである。
それにしても、ヒロインのエミリが、輪姦されそうになったり、ヤクザに拉致られそうになったり、シャブ打たれそうになったりするシーン、メッチャ怖かったな…安達哲先生の暴力描写は井筒映画ばりに本当に怖い。
また、「自分は戦わないくせに戦ってる人に厳しいオタク」に対する作者の厳しいイラ立ち描写がチョイチョイあるのも良かった。
しかしそんな、夢や理想が現実に砕かれる地獄巡りのような青春の果てに成長した主人公たちがたどり着くこの作品の結末は「神様?運命?上等だよ!」なぐらい頼もしく、清々しく、キラキラと輝いている。
『ホワイトアルバム』の空白を埋め尽くすような本当に見事な作品だった。
ところで学生時代、キラキラした青春を送る皆さんから「えた非人」のような扱いを受けていた私は、布団の中でまんじりともせず、屈辱を晴らす妄想を繰り返す奥平くんや、痴人の愛に溺れる岡島くんなど、本作に登場する脇役男子キャラへの共感がハンパなかった。
その岡島くんのドMな愛の対象になる、ナオミズム全開のドS女子・美里や、対照的なピュア女子・恵美ちゃんも生き生きと魅力的だった。
後の作品『お天気お姉さん』は、ヒロインが生放送中のテレビカメラの前でウンチ漏らしたりするマンガだったが、しかしそれでも安達哲先生は上品だし、文学や映画への造詣が深いインテリだし、そして何と言ってもフェミニストだと思う。
さくらの唄
■著者:安達哲
■1991年 週刊ヤングマガジン
■全3巻
『ホワイトアルバム』『キラキラ!』と作品を追うごとにハードさを増していき、「もう少年誌の枠には収まりきらん!」とばかりに青年誌であるヤンマガに活動の場をチェンジ!
私のようなデビュー作からのファンはもちろん、おそらく安達哲さんご自身の予想すらもはるかに超える大ハードな凄春性春青春マンガとなり、多くの人に衝撃を与え、その人生を変えてしまうぐらいのパワーを持つ、太宰治の『人間失格』やドストエフスキーの『地下生活者の手記』級の恐るべき名作。
ご自身が暗い青春を送ったことをたびたびネタにしておられる筋肉少女帯の大槻ケンヂさんはコラムの中で「まいった、負けた、泣いた」と書いておられた。
本作に感動なさったピエール瀧さんは、たしか何かの音楽雑誌で安達哲先生と対談、その衝撃を描いたご本人に熱く語っておられた。
『悪の華』の押見修造先生も、原点としてこの『さくらの唄』の衝撃を挙げ、同じくヤンマガで『パッパカパー』などをヒットさせていた水野トビオ先生は「安達哲はマンガ界の太宰治だと思う。」と言っておられた。
「周りのみんなが自分をバカにした変な目で見ている」という症状に悩まされつつ悶々とした毎日を送る美術系男子。
ある日「腐った社会の象徴」のような人物の登場により日常が狂い始め、やがて「絶対にこうなってはほしくない!」という最悪の事件が起きる…
かくいう私も青春時代、視線恐怖はもちろん、表情恐怖、女性恐怖、対人恐怖、異臭恐怖、食事恐怖、雑念恐怖、書痙などなど…ありとあらゆる陰キャアビリティの総合デパートのような状態で、学校の廊下を歩くだけで地獄、「自分は何かおかしい。」と日々思い悩み、「神経症」という症状があることを知り、芋づる式に「森田療法」の存在にたどり着くというコースをたどった人間。
なので本作の主人公や、あの映画監督志望の学校カースト最下層男子ノヒラくんへの共感度はハンパなかった。「これは自分だ!」という衝撃だった。
有害図書規制運動が激しかった当時、モザイクまみれの本作の最終3巻に付けられてしまった「成人指定マーク」について、どなたかが「勲章のようなもの」と言っておられた。
すばらしい書評だ。本当にそう思う。
物陰に足拍子
■著者:内田春菊
■1988年
■全4巻
作者の内田春菊さんには印税が入らず申し訳ないのですが、古本屋でそろえた。
最初の第一巻を何気なく手に取り帰宅。
読後、興奮がおさまらず、古本屋まで再びチャリで激走。結局その日のうちに最終4巻まで買いそろえてしまった。
人の不幸や死を娯楽のように楽しむ。
悲劇的なシチュエーションにドラマのように酔う。
抗いがたく放課後のセックスにのめり込む。
悪意や暴力に突然傷つけられる。
後書きで吉本ばななさんが書いておられた通り、ここには「あの頃の私」の姿が、醜く美化されたりせず、そのまま描かれていた。その衝撃が、私をその日のうちに古本屋へ走らせたのだった。
恋愛はもちろん、ギャグ、ホラー、SFなどなど…さまざまなジャンルの豪華寄せ鍋のような春菊ワールドを、本作をきっかけに一時期むさぼるように読み、「心の支えになった」と言っておられた心理学者の岸田秀さんの本も何冊か読んだ。
視力10・0ぐらいあるんじゃないかと思われるハイパーな人を見る目で欺瞞や偽善を見透かし、時にクールに、時におもしろおかしく人間を描き出す内田春菊先生の作品には、万年困ったちゃんの私は今もドキドキしっぱなしである。
朱に赤
■著者:柳沢きみお
■1981年 週刊少年マガジン
■全5巻
本作については、私のもう一つのサイト《80年代OVAのススメ》で、柳沢きみお先生原作のアニメ『青き炎』を紹介…するつもりが、ほとんどこの『朱に赤』激推しレビューになってしまったので、よろしければそちらを読んで頂けると幸いである。
しかし、そのレビューにまんまと推されて読んで、全然幸いな気分にならず、犯行前夜ぐらいドンヨリしたとしても苦情はいっさい受け付けない! ↓
ところでタイトルは失礼ながら失念してしまったのですが、やはり柳沢先生の作品で、ある平凡な中年サラリーマンが若い愛人との肉欲に溺れ、会社も家族も捨て、すべてから逃げ出して堕ちていく地獄マンガを、朝のコンビニで立ち読みしてしまい、その日じゅうずっとジリジリと西日に焼かれるようなドンヨリ気分で過ごしたことがある。
「何かから逃げ、追い詰められ、堕ちていく人間」を描いた柳沢マンガは本当にヤバい。
ケッチン
■著者:きら たかし
■2009年 週刊ヤングマガジン
■全15巻
大好きな人も多い作品なので申し訳ないのですが、スタジオジブリの青春アニメ『耳をすませば』を観た時、どうも釈然としない思いを抱いた。
自分が通ってた中学が、校庭をバイクが走り回り、常にバクチクと火災報知器が鳴り響き、トイレのドアは蹴破られて全部なく、シャバ僧たちは教師用のトイレで用を足し、廊下で不良たちがタバコどころか普通にシンナーを吸い、ラジカセかけて踊っており、教師ももはや注意もしない…という山下真司のいない『スクールウォーズ』のような世界だった。
なので『耳をすませば』を観た時、あまりの自分の学校との違いにポカーン。
脚本・絵コンテを担当なさった宮崎駿さんがパンフレットに書かれていた「ありったけのリアリティーをこめた」という言葉にも大変失礼ながら「?」であった。
リアリティー?皆さんの中学校にはバイオリン職人を目指す高橋一生くんはおられたであろうか?
『ケッチン』はある平凡な男の子ユウと、彼を取り巻くキャラクターたちの高校生活を描いた作品だ。
バイクに憧れを抱き、イジメっ子や不良の暴力におびえ、ケンカができぬ自分の不甲斐なさに落ち込み、ずっと想いを寄せてきた女の子でオナニーしそうになる自分を戒め、その女の子もオナニーどころかウンチどころかイケてる先輩とセックスをしてしまう。
しかしそんなすべてのキャラクターたちに人間としての温かみがあり「ああ、この子たち、本当に幸せになってほしいな。」と心から思えるほど愛おしい。
また、きら先生が青春を過ごされた頃はおそらくなかった携帯電話も自然に作品に溶け込ませ、そして驚くべきことにあの震災まで作品にからめているのである!
これは本当にすさまじい労力が必要な大変な作業だ。
「リアリティーをこめる」とは、セックスバイオレンスのニオイがしない、老人に都合の良い、素直で善良な若者像を捏造することではなく、こういうことではないだろうか?
ラストシーン、手をつないで木漏れ日の中を歩くユウと「あの娘」の後ろ姿に私は泣いた。